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それ以後は、明治十五年の「同食(くいあわせ)心得養生鑑」(番付表)や明治三十一年の「同食養生心得」(ちらし)などに書かれています。 左の画像は明治二十七年に発行された「食物喰合心得」という、表紙一枚に、中は一枚を折って本文4ページにした、一番簡易的な小冊子にしてあり、 【うなぎニ梅ぼしハはらいたむ】 【うなぎニ生梅ハ命にかかわる】 と、書かれています。 |
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入江幹蔵著 鰻通 |
博士の名前から判断すると 医学博士 泉伍朗先生は、一八八四年(明治一七)五月二十八日に生まれ、一九一〇年(明治四十三)十一月に京都帝国大学福岡医科大学を卒業となっていますので、薬屋さんの印刷物になるくらい有名になったのは、恐らく昭和の初めと推測しています。 (余談ですが泉伍朗先生の経歴を調べると凄い人です) この食い合せ表は現在でも比較的簡単に入手する事ができ、おそらく一番多く出回った印刷物かもしれません。 もし「鰻と梅干」の組合せが主流として考えられていたなら、ちょっと年代的に矛盾を感じますね。 明治から大正にかけてのウナギ関係の本自体が少なく、あまり確認できませんが江戸時代中期以後のいくつかの本の中に、鰻と関わる食い合わせが書かれています。 しかし、江戸時代には肝心の「鰻と梅干」の組合せは先に紹介した皇和魚譜にしか登場しません。 |
「鰻学」の中で松井魁先生は
【紀州地方では古くから、梅干や酢との食い合せとして禁忌が伝わっている】と書かれています。
これもまた【古くから】が何時ごろかがまったくわかりませんが、この梅干の産地として名高い紀州地方は「梅干」の歴史の中では比較的に新しい江戸中期からの産地です。
ですから、時代的にその梅干の開発当初に起こった未熟な梅干?による青酸が原因の事故が始まりなどと考えていました。
(たった一行の文章からの推測ですみません・・・)
1634 日用食性 1713 養生訓 1716 巻懐食鏡 1731 日東魚譜 |
鰻と銀杏 |
1818 奴師労之 寛政年間 料理早指南 (1789〜1801)鰻と酢との食い合わせを否定 |
鰻と酢 |
1832 養生主論 | 鰻と梅酢 |
1838 皇和魚譜 | 鰻と梅干 |
「日用宝典」土橋正之 著 左 大正五年 右 大正八年 |
左の写真は大正五年と七年に出版された本で、色々な食い合わせや病気などの家庭医学的なもの、運気や方角などが書かれている、養生訓の大正版のような本です。 |